2017年08月06日

「太陽が落ちてきた・・すずなりの逸声」上演を終えて

自分にとってはおよそ一年に及んで手掛けた作品が、なんとか無事に開幕、終了した

ゲネをみたとき、漸く手ごたえを感じた、よくぞここまでやった、という自分と役者への長い道のりを思い、武者震いにも似たものが走った
最終日では拍手鳴りやまず、再度のカーテンコールに声が詰まり
反省会では、参加者の様々なこの作品や役との向きあい方や稽古に対する思いを聞き、週一とはいえ、半年間に渡る個々役者との印象深い場面を思い出され、こみ上げてくるものがあった

思えば稽古場では、朝から夜まで自分はほぼ食事もとれないほどの演出指導に分刻みで終日やっても全場面は追いつかず、へとへとになり帰宅後、玄関で倒れ込んで眠ってしまったこともあった
体力との勝負はもちろんだが、精神的な勝負も盛り沢山である
なにせ32人の役者
数ある中、自分が決めたのだから誰のせいにもできない
なにがなんでもこの人たちで作品を完成させるのだ、と目を凝らし神経を集中させ、その演技の一つ一つを見続ける
そして、何が惹きつけないのか、なにが当事者として足りないのか、どうすれば主題がぶれないか、一つ一つ紐解いていく
被爆者辰郎の台詞のもとになった当事者の証言「体験すれば生死が骨の髄まで沁みこんでね、当たり前の生活の有難さがわかるんだよ、体験してない人にね、命の重みなんて伝えきれないしわかるわけもない」

イメージを具体的に伝えるのは難しい、しかし、頭の中ではわかっているができない、という役者も多かった
台本も幾度となく変わった、演出に至っては試行錯誤の繰り返しであった
役者一人一人、その個性、クセ、スキル、感性、キープ力、打たれ強さ、危機感、何もかもが違う、ダメ出しをしてもとらえ方も違う、直せるスピードも違う。半年間、同じことを指摘した役者もいれば、まるで綿に水が沁み込むように演出意図をのみこむ者もいる。個別稽古も増えていく
しかしだ
どんな役者であっても、観客を惹きつける存在になりうるかどうかはまた別問題なのだ
だから私はプロや経験者以外に初心者も毎回採用するのだ

そしてどんな人であれ、最後まで演出を信じてついてきてもらえるかどうか、その一言にかかっているのだ

フィナーレで言った言葉、
過去は変えられませんが、未来にもし、またこのような過ちが繰り返されそうになったら、それを阻むのは、どこかの、誰かではなく、私たち一人一人が強い意識をもって
「それは間違っている」と声をあげていくことだと思います

この言葉は演出ではなく、私の魂の叫びである
戦争はいきなりではなく、すり替えのうまい指導者と大衆の流されていく意識の波がNOと言わせない空気を呼び、水が沸点に到達するように、気が付いたときは始まってしまっているのではないか
そして戦争を終わらせるのは、どれほど難しくどれほどの犠牲を払うのか
表現者として、その危機感を伝える一雫になっていきたいと思う

舞台の反響はこれまで以上に大きく、自分も上演後こそ、そのメッセージ発信のために求められる場にはできるだけ足を運んでいる
再演を望む声も有難いほど多いが、その時はまた新たな顔ぶれとなり、また違う「太陽が・・」になるのだ

今はまだ私の中に、辰郎が、被爆した人たちが、現代の高校生たちが、あの舞台に出た役者陣イメージそのままに息づいているのだ
彼らのお陰でいのちをもった作品、本当に感謝している

posted by ユウカ at 07:45| 日記